2010年01月27日
栗野松尾城
私の父方の家は湧水町(旧吉松町)なのですが、毎年盆と正月は鹿児島市から横川をとおり栗野を過ぎて吉松という風に帰省していました。栗野のIC付近を通り過ぎ吉松方面へ向かう途中に「松尾城跡」の案内標識があります。
栗野松尾城は1590年(天正十八年)から1595年(文禄四年)の間の五年間、島津義弘の居城でありました。
はじめ、北原氏の本拠地であったこの城は1564年(永禄七年)島津氏の居城となります。
1590年、義弘は飯野城からこの栗野城へ移ってきます。
1593年(文禄二年)二月、義弘・久保(ひさやす/義弘の次男)はこの栗野城から朝鮮へ出陣しました。久保は朝鮮で病死してしまいます。遺体が戻ってきたのも栗野城。久保が病没した後は代わって弟の忠恒(ただつね/義弘の三男)が朝鮮へ出陣します。この忠恒は、後の島津家久で初代の薩摩藩主となります。薩摩藩の最初の殿様は幼少時代は飯野城・栗野城で過ごされたんですね。
松尾城の大手門
現在は城山公園(運動公園)となっていますが、石垣なども残っていて当時をちょっと偲んでみたり、なんてことをしてました。本丸跡は足を踏み入れるとバッタが飛んだり、トカゲがうろうろしてたり…とても自然に溢れた城跡(笑)
南九州で唯一の山城なのだそうです(案内板より)
※ちなみに、「吉松」の地名をつけたのは島津義弘なのだそうです(湧水町HPより)
栗野松尾城は1590年(天正十八年)から1595年(文禄四年)の間の五年間、島津義弘の居城でありました。
はじめ、北原氏の本拠地であったこの城は1564年(永禄七年)島津氏の居城となります。
1590年、義弘は飯野城からこの栗野城へ移ってきます。
1593年(文禄二年)二月、義弘・久保(ひさやす/義弘の次男)はこの栗野城から朝鮮へ出陣しました。久保は朝鮮で病死してしまいます。遺体が戻ってきたのも栗野城。久保が病没した後は代わって弟の忠恒(ただつね/義弘の三男)が朝鮮へ出陣します。この忠恒は、後の島津家久で初代の薩摩藩主となります。薩摩藩の最初の殿様は幼少時代は飯野城・栗野城で過ごされたんですね。
松尾城の大手門
現在は城山公園(運動公園)となっていますが、石垣なども残っていて当時をちょっと偲んでみたり、なんてことをしてました。本丸跡は足を踏み入れるとバッタが飛んだり、トカゲがうろうろしてたり…とても自然に溢れた城跡(笑)
南九州で唯一の山城なのだそうです(案内板より)
※ちなみに、「吉松」の地名をつけたのは島津義弘なのだそうです(湧水町HPより)
2010年01月09日
ジメサア
もう一昨年の話になりますが「篤姫」で島津家の女性の存在が有名になりましたね。さて、戦国時代にも注目すべき島津家の女性がおります。
鹿児島市立美術館の門をくぐり、建物に入る手前で左、西郷さんの銅像がある方へ向かって歩いていくと少し引っ込んだところに石像があります。
石像の隣には鹿児島市の立てた案内板があり、「ジメサア」についての説明がされていますが、この方は18代島津家当主で初代薩摩藩主島津家久夫人の持明院様(じめいいんさま)といいます。16代島津家当主であった島津義久の三女で、義久はこの三女を一等可愛がっていました。はじめは家久の兄である久保(ひさやす)に嫁ぎましたが、久保は病死してしまいます。その後家久夫人となるのですが、案内板にあるように「器量は良くなかったけれど心優しい夫人で幸せな家庭を築きました」ということはなく、実際のところ夫家久との仲は最悪だったそうです。
鹿児島から国分へ追い出され(なので持明院様は国分様とも呼ばれています)、仕送りもなく貧乏暮らしをされ、死後は墓を建ててもらうこともなく挙句冗談のような和歌を送られるという始末。
それでも家久と側室との間の子供(19代当主光久)の養母をやったりしてるんですから…。私にはできません。この心の広さと忍耐力を尊敬しています。
ここのジメサアに触れると美人になれるとか、持明院様を祀っている「鶴嶺神社」に御参りすると美人になれるとか、そんな話がありますが、心が美人になれるのでしょう、と信じています。
毎年10月5日にはジメサアのお化粧直しが、11月5日には鶴嶺神社にて慰霊祭が行われています。
美術館を訪れた際はぜひジメサアにも会って行ってください☆
鹿児島市立美術館の門をくぐり、建物に入る手前で左、西郷さんの銅像がある方へ向かって歩いていくと少し引っ込んだところに石像があります。
石像の隣には鹿児島市の立てた案内板があり、「ジメサア」についての説明がされていますが、この方は18代島津家当主で初代薩摩藩主島津家久夫人の持明院様(じめいいんさま)といいます。16代島津家当主であった島津義久の三女で、義久はこの三女を一等可愛がっていました。はじめは家久の兄である久保(ひさやす)に嫁ぎましたが、久保は病死してしまいます。その後家久夫人となるのですが、案内板にあるように「器量は良くなかったけれど心優しい夫人で幸せな家庭を築きました」ということはなく、実際のところ夫家久との仲は最悪だったそうです。
鹿児島から国分へ追い出され(なので持明院様は国分様とも呼ばれています)、仕送りもなく貧乏暮らしをされ、死後は墓を建ててもらうこともなく挙句冗談のような和歌を送られるという始末。
それでも家久と側室との間の子供(19代当主光久)の養母をやったりしてるんですから…。私にはできません。この心の広さと忍耐力を尊敬しています。
ここのジメサアに触れると美人になれるとか、持明院様を祀っている「鶴嶺神社」に御参りすると美人になれるとか、そんな話がありますが、心が美人になれるのでしょう、と信じています。
毎年10月5日にはジメサアのお化粧直しが、11月5日には鶴嶺神社にて慰霊祭が行われています。
美術館を訪れた際はぜひジメサアにも会って行ってください☆